パンを日常の「主食」に〈Boulangerie 14区 八木夫妻〉(前編)

お店とケのまち


妙蓮寺にある、人気パン屋さん「Boulangerie 14区」の、八木夫妻にお話しを伺ってきました。

プロフィール

八木 哲郎(パン作りのシェフ)

1974年福岡県生まれ。大学卒業後「(株)神戸屋」に入社し、パン作りを学ぶ。2004年に渡仏しパリの有名店に勤務。新店舗立上げ等にも携わった後、世界を旅しながら帰国。日本ではパン学校の講師としても活躍。

八木 佐樹子(料理人)

1979年岩手県生まれ。宮城県仙台市のニューワールドホテル(現:仙台ヒルズホテル)で洋食部門を担当、2004年、哲郎さんと時を同じくして渡仏。数々の星付きレストランで修業を積んだ後、出張料理人として活躍。 2012年、「Boulangerie 14区」を夫婦で開業。

酒井:

まずは恒例の『関係ない質問』をどうぞ!

靴のサイズ
哲郎さん:26.5㎝
佐樹子さん:24.5㎝
好きな映画
哲郎さん:ショーシャンクの空に
佐樹子さん:永遠の0、アメリ
熱中していること
哲郎さん:戦国ゲーム
佐樹子さん:店の運営
よく使うスマホアプリ
哲郎さん:戦国ゲーム
佐樹子さん:Instagram、マガポケ
人生最大の出費は
哲郎さん: お店
佐樹子さん:留学の費用
自分へのご褒美は
哲郎さん:旅行
佐樹子さん:ケーキ
17歳にもどれたら
哲郎さん:17歳から今までをやり直すのが面倒(笑)なので戻りたくない
佐樹子さん: 毎日後悔なく生きているので、戻らなくてOKです
100時間あったら
お二人: 旅行にいきます!
1億円あったら
お二人 :リアルな話 、不動産を買いますね(笑)
好きな漫画
哲郎さん: 進撃の巨人 。この間終わりましたけど、いいラストでした~
佐樹子さん: マイホームヒーロー、ザ・ファブル
妙蓮寺民ランチの定番、惣菜パン

死ぬ前に、好きなことをやりたくて渡仏

酒井:

どんな幼少時代でしたか?

佐樹子さん:

物心ついたころから、作ることが好きでした。

幼稚園に入ると、祖母や母のお手伝いをしながら、お菓子や料理をしていました。学芸会ではコックさんの役をやったり(笑)

今思い返すと、小さなころから事あるごとに“将来の夢は『コックさん』”と書いていましたね。とにかく、料理でも工作でも、作ることが大好きでした。

シェフ(哲郎さん)は、パン作りの真っ最中ということで、奥様の佐樹子さんにご対応頂きました

佐樹子さん:

シェフ(哲郎さん)は、3人兄弟の真ん中として産まれて、パン職人に興味を持ったのは大学生のときだったそうです。

就活であちこち見て、そこでパン作りに興味を持ったそうです。

シェフの幼少期のお写真。面影がありますね。

佐樹子さん:

シェフがはじめて就職したのは、(株)神戸屋でした。

1年目は工場での勤務で、その後は神戸屋レストランでパンの製造を行っていましたが、責任者に抜擢され、新店舗の起ち上げにも携わらせてもらいました。

この頃は休日も休まず、毎日始発から終電まで働いて帰宅して、ご飯を食べながら寝てしまうという毎日でした(笑)

入社後、4、5年目の頃、先輩や上司のアドバイスなどから、独立思考が高まり29歳の時に退社して、渡仏しました。

佐樹子さん:

わたし(佐樹子さん)は、調理専門学校を卒業後、ご縁あってホテルに就職して、3年半ほどレストラン部門に勤めました。

21歳のときに会社の健康診断で病気が見つかり、入院 → 手術 → 術後の痛みと熱で意識朦朧とした中、ICUのベットで

これは死ぬな…死ぬんだったら好きなことやろう…

と思って、渡仏を決意しました。(ちなみに、死ぬような病気ではありませんでした。大袈裟ですみません 笑)

酒井:

凄い壮絶なエピソードですね、、、
そして同じ時期に、二人別々に渡仏したんですね。運命的!

フランスでの生活

酒井:

フランスでの生活は?

佐樹子さん:

シェフは、自分が修行をしたいと思えるお店を探すため、あちこちのお店のバケットを食べ歩いて、

ドミニクのお店が美味しい!」※1

と感じて、パリでおいしいと評判の

ル・ブーランジェ・ドゥ・モンジュ』というパン屋さんに、

「ここで働かせてほしい!」と直談判したそうです。

※1:ドミニク・サブロン。パリの実力派ブーランジェ。伝統を守りつつ、数々の新商品を開発。素材にこだわった商品や、バケットが人気の高級ブーランジェリーのオーナーシェフ

酒井:

パリでバゲットを食べ歩いて、飛び込みで修行を直談判なんて、 ドラマみたいな話ですね(笑)

佐樹子さん:

はい、でも運良く『やってみる?』と言ってくれて、雇ってくれることになったそうです。

佐樹子さん:

最初は「見習い」として試用期間があったのですが、ドミニクから「仕事がキレイで、手際がいい」と評価され、正規スタッフとして雇用されることになりました。

その後は、パンの中でもハード系のパンの製造を任せてもらっていたそうです。

哲郎さん:

パンは生き物なので毎日違います。

機嫌がいい時もあれば悪い時もある。
本当に子供と一緒です。

さらに美味しくするためにギリギリのレシピで作っているので、数グラムの違いがパンをダメにしてしまう時もあります。

ハード系のパンは材料がシンプルな分、作り手の色が出やすく、技術や知識を要求されるので、ヒリつくような緊張感の中、納得のいくバゲットが出来た時は最高に嬉しいですね。


このドミニクのお店で修行した後、パリのオペラ界隈にある日本風のパン屋1号店の『ブーランジェリー AKI』の新店舗の立上げなどにも携わり、 

フランスで6年間修行したあと、1年かけて大陸を横断、その後パリのメゾン・ランドゥメンヌに再就職をし、同店の日本支店に配属になり帰国しました。

日本に帰国する途中、シリアや中東各国を旅していた頃のシェフ(右)

酒井:

奥さまの、フランスに行ってからの生活は?

佐樹子さん:

文字通り、全財産はたいて留学したので、貯金もほとんどなく、経済的に余裕のない『本当にカツカツの状態』でフランスに行きました(笑)

なので、行ってからも、しばらくはカツカツで、、、(笑)

フランス語が話せない頃は、月に3~4万円程の収入で生活していましたね。

でもレストラン勤務だったので、賄いは食べられるし、余った食材は同僚がこっそり持たせてくれたりしたので食事には困ることなく、なんとか生きてこれた、という感じでした。

幸い、星付きのレストランやホテルでは、日本人へのリスペクトがきちんとあったので、コミュニケーションが取れて、スキルがあるとわかったら、すぐに受け入れてくれて、その後は対等に接してくれました

ここのポジションで頑張りたい、と言えばやらせてくれるし、別の場所で働いてみたいと言ったら、紹介状を書いてくれるし、飛び込んでみると、皆すごく優しかったので、ありがたかったですね

お二人とも、パンと料理に対してはとてもストイック!

酒井:

フランス語が話せるようになるまで、どのくらいかかったんですか?

佐樹子さん:

最低限の言葉を話せるようになるのは、1年かからなかったですね。生きるのに必死でしたから(笑)

レストラン勤務の日は、朝7時に出勤して、24~25時くらいまで働いて、その合間で語学学校に行ったり

休日は1日12~13時間くらい勉強していました。

今では到底考えられないハードスケジュールで、、、すごく頑張っていましたね。

体力的には、めちゃくちゃハードでしたが、料理が大好きなので、ハッピーで仕方なかったです!

後編はこちらから

ブーランジェリー 14区

住所
横浜市港北区菊名1-4-2
電話番号
050-5872-8602
Instagram
https://www.instagram.com/boulangerie.14/



  

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この記事を書いた人

酒井洋輔

酒井洋輔

編集長
くらしとすまいの松栄三代目。妙蓮寺生まれ・妙蓮寺育ち(悪そうな人は友達ではない)農業を参考に、不動産と建築、街づくりが循環し、持続可能な形で成長するビジネスモデルを探求中。

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